ゆきゆきて、神軍

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公開日 1987/08/01  122分


★★★★★★★★ 8


僕は劇映画に比べてドキュメンタリーの映画は好きではない。
これは読み物について、小説が好きであるというのと同じ次元であり、僕の好みである。
しかし、このドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」は、半端な、いや、大概の劇映画なら吹っとぱす。

この映画は奥崎謙三という人物の「神軍」という一面を追ったものである。
そのテンポ・パワーは圧倒的でラストに今村プロダクションのスーパーを見て成程と思った。
この映画はこの「神軍」を如何に見せるかに総てが懸かっているが、見事なラスト迄、素晴らしい音の処理、映像で観客をぐいぐい引っぱってゆく。
その、ややもすれば嫌悪感を抱き、見るのをためらわせかねない主人公の捕らえ方の巧さ。
そのカメラは私達の目を完全な傍観者として、主人公と共に行動することを許している。
主人公の妻が怪我をした時のインタビューも私達は傍観者である。
この主人公の行動はおろか、存在さえ信じ難い私達は頭から水を被せられるような体験をするのである、「この人物は何なのだ」と。
羅かに次々と暴かれていく内容は非常にショッキングである。
しかし、私にとっては、この主人公の存在の方が逢かにショッキングである。「この人物は何なのだ」。

奥崎謙三という人物は巨大な矛盾である。その言動全てに矛盾がある。
人の命を奪った過去がありながら、平然と人の命の大切さを唱える。
人の作った法律を盛んに非難する一方、何度も十何年かの独房生活を送ったことを天罰のように話す。
戦時中の体験を追求することを将来のためなどと言っているが、その将来に対する希望は全く感じられない。
この男には未来が感じられないのである。 
「過去」に捕らわれた男、極端な言い方をすれば、「戦争」にとりつかれた亡霊である。
彼の持ち歩いた墓標に書かれていた「怨霊」なのである。
ただ、彼は生きている。被は生きた戦争の怨霊なのである。僕達戦争体験の無い者が大切だと思う人間の美しさ、優しさ等を感じさせない被も又、戦争の犠牲者であり、被を見ることにより戦争の恐ろしさを知るのである。
「神軍』のみならず、パスポートを持ち「岸壁の母」を歌えるお婆さん等に戦争のキズを見せるのである。
そのお婆さんの死、奥崎の妻の死、そしてラストによって戦争の牛ズも終結しかかっていることを映画は伝えて終わる。
映画が終わって、憶らくいろんな人がいろんな感想を持つと思われる。
映画は「さて、これからお前はどうする?』と戦争未体験の私に訴えた。観てしまった以上逃げることは出来ない。

奥崎という人物は情緒に欠け、無知で短絡な人物として写されている。
しかし、意志と行動力はすごい。バカには出来ない。戦争さえ無ければこいつは、どうなったか?
結果論はさておき、こんな疑問も、他の私の感じた怒りも憎しみも、たどれぱ戦争へ行き着くのである。
戦争が生んだ悲劇などという言葉では言い尽くせない、生々しい「現実」を観せられた。

原題  ゆきゆきて、神軍

製作国 日本
製作 疾走プロダクション

監督 原一男 Hara Kazuo
企画 今村昌平 Imamura Syohei
構成 鍋島惇 Nabeshima Jun
製作 小林佐智子 Kobayashi Sachiko
撮影 原一男 Hara Kazuo
編集 鍋島惇 Nabeshima Jun

出演 奥崎謙三 Okuzaki Kenzo